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未来の学校のつくりかた―推薦コメント

 

【坪井ひろみ(『グラミン銀行を知っていますか』著者)】
未来の学校に“学校嫌い”はいない!
― 創造力を掻き立てる良書 ―

「学校に行きたい!」は世界の子どもの望みである。そう、子どもは学校が好きなのだ。この望みを叶える学校は、一人では生きることができない人間が、人と交わりながら学ぶ教育の場だ。だから、双方向性のある学びが未来の学校の当り前となり、それが子どもの更なる希望の原動力となる。ここに“未来の学校のつくりかた”のカギがある。本書は私たちに、こう語りかける。

筆者が訪れた5つの学校には、未来の学校づくりのためのヒントがびっしり詰まっている。そこには往々にしてありがちな“べき論”はない。なぜか。学校は「勉強しに行く所」と捉えていないからだ。勉強には強いる側面がある。強いるから“べき論”が伴う。未来の学校では、子どもたちがわくわくすること(what I want to do, what I want to be)を探し、それらを実現できるように、たくさんのことが学べる、そんな場だ。線路(進路)は単線(良い学校に入って、良い仕事に就く?)だけでなく、複線、いや複々線が敷かれるだろう。だから、学校が嫌いな子どもはいない、というわけだ。

だれが未来の学校をつくるのか。このヒントは5つの事例にちりばめられている。答えは間違いなく四者(A:児童・生徒、B:教職員、C:サポーター(保護者)、D:地域住民)だ。双方向性のある学びができるように、たとえばAは、A内で、そしてAB間、AC間、AD間、さらにABC間、ACD間、最後にABCD間で交わる、と思い描く。B、C、Dにも同様に思いを巡らす。これをすっきりさせるために、3つの円をそれぞれ重なり合うように画き、すべてが重なった部分をAにすると、子ども中心のみんなが学び合う未来の学校の概念図が出来上がる。「学ぶべき」→「学ばなきゃ」から「学ばせたい」→「学びたい」、さらに「学びたい」⇔「学びたい」への変革だ!

本書の書きぶりはとにかく熱い。フーフー冷ましながら読み進むと、こうした未来の学校像が頭に浮かんでくる。創造力を掻き立てる良書だ。


坪井ひろみ(秋田市在住。大学院入学当初、勉強とは強いるものだと教わり妙に納得。大学院後期の3年間、学びの醍醐味を味わい、至福の時を過ごす)


【開沼博(立命館大学准教授)】

 いまほど教育が危機的な状況におかれたことはない!日本の教育は変わらねばならない!このままでは子どもたちの未来は大変なことになる!さあ、一緒に立ち上がろう!

 ・・・というような威勢の良い掛け声を、このコロナ禍の混乱の中で叫びたくなる人も少なくなかろう。多くの子どもが一ヶ月以上学校に通わず今後も一定のイレギュラーな対応が長引くかもしれない。必然的に格差は拡がる。多くの人が一生の思い出として死ぬまで持ち続けることになる学校行事も部活の大会も消えてしまった。たしかに教育は空前絶後の危機にさらされているようにも見える。

 しかし、そんな中だからこそ、冷静にその「危機」がいかなるものか、本当に危機なのか、その実情を見直してみる必要があるだろう。

 そもそも「日本の教育の危機」はいまに始まったことだろうか。例えば、ゆとり世代といわれる現在のアラサーが受けてきたゆとり教育は、それ以前の過度な詰め込み教育や受験戦争の弊害が露呈する中で生まれた。ではなぜ詰め込み教育が正しいとされた時代があったのかというと、人口が増え産業が急速に発展する日本において、それにあった人材を大量に生み出す社会的必然性、危機感があったからだ。現在までにゆとり教育から脱ゆとり教育へと舵が切られ、さらに別な方向への模索が続く。ある危機を受けて大きく振れた振り子は、別な危機にぶつかり逆に振れ、さらにまた別な危機の中で、と繰り返し動いてきた。

 あるいは、画一的・単線的教育システムからの脱却、というのもまた、産業構造や人口構成の変容、グローバル化・情報化など社会の変化の中、このままの教育ではいけないと、ここ30年ほどで進められてきたことだ。つまり、慶応大学湘南藤沢キャンパス、いわゆるSFCに象徴されるように、仕切られた教室と教壇を全員が向くように配置された机ではなく、オープンスペースに自由に動く机を配置する。教科書やドリルで決められた知識を得ることよりもグループワークやフィールドワークを中心としたプロジェクト型学習に時間を割く。特定の教科・科目や学問領域に絞らずに、それらを越境しながら学び考える「学際」などと呼ばれるアプローチを重視する。そういう新たな教育のあり方は、いまや地方の中等教育・初等教育にまで伝播している。これもまた「日本の教育の危機」の産物であり、しかし、おそらくそれが万能薬だというわけでも無いこともまた薄々気づかれている。(本書が編まれた背景には意識的ではないにしてもそんな、ある種のきれいな未来型教育ではない、現場の泥臭さの中だからこそ立ち上がってくるもの、「エリート教育」と意識されていない「エリート教育」とは異なるものをこそ見ようとする感覚もあるのだろうか。皆がグループワークしてフィールドワークして、ワークショップしてポスター発表して、という軽やかでカッコいい教育こそが普遍的価値を持つならば、2030年の教育はこのまま全国の小中高校がSFCのようになるべしという結論でよいのだから。)

 いずれにせよ、「日本の教育の危機」が叫ばれて、新たな形が模索される、という過程はいまにはじまったわけではない。危機はこれまでも存在し、これからも存在し続けていくだろう。その中で必要な議論は、いかに目新しく・洒落て見えるかとか、3.11やコロナ禍のような大きく分かりやすい混乱・衝撃への対症療法をどうするかとかいうレベルの話ではない。目の前に何が現れようとも、いかに表面的な議論で振り子が右に左に振れ続けようとも、ブレずに「これこそ必要だ」とそこに存在する支点、その支点が立つ地層の奥深くにある安定した岩盤の在り処を見極めることだろう。本書の価値、面白さはまさにその岩盤を掘り当てようとし、それを卓越した取材と文体の力を持つ筆者がわかりやすく、読みやすく伝えることに成功していることにあるだろう。

 本書には「5つの教育現場」それぞれの現場の風景と声が取り上げられ、その内容は多様でバラバラだ。ただ、全体を読み通した時にいくつかの限られた命題が繰り返されていることに気づく。

 例えば、「何が一番子どものためになるのか」という、改めて言われれば凡庸な命題だ。その凡庸で基本的なことがどうやら現場では実現できていない。行政文書だったり、口先でだったりでは、教育が「子どものため」になされていると多くの人が繰り返してきただろう。しかし、現実はそうなっていない。それはなぜかと問われることもあまりないらしい。例えば、本書に描かれる震災後の岩手県大槌での教育改革はそこに切り込む壮大なプロジェクトであったことが本書からはわかる。

 教育にも供給側(=教育行政・多くの教職員・保護者・・・)と需要側(=子ども)がいる。供給側にとっての「子どものため」と需要側にとってのそれは違う。ところが、前者=供給側の視点での「子どものため」のみが優先され、後者のそれが蔑ろにされる。その結果生じる需要と供給の間にある溝が埋められてこなかった。その溝の中には学校に適応できない子ども、地域間格差の中で取り残される学校が生まれる。この構図が具体的な事例をもって浮き彫りにされる。

 また、他に本書が浮き彫りにするものとして、ある種の「循環」の構図、社会学的に言うならば再帰性が見えてくるのは興味深い。

 例えば、学校は子どもを大人が育てるだけの場ではなく、教職員・保護者・地域で関わった大人こそが子どもから育てられる場でもある。学校とは地域が蓄えてきた知の遺産が集積する場であり、そこで育った人がまた地域づくりを進めて地域に知を生み出して行く。そういった循環や再帰性。つまり、AがBを生み、さらにBがAを生んでいくという構図がそこにある。本書を読むまで知らなかったが、既存の学校制度ではカバーしきれない部分をダイナミックに担おうとする侍学園の事例から考えさせられることは多い。

 そこには歴史的な循環・再帰性もある。学校と地域の関係という古くて新しい問題を本書は浮き彫りにしている。

 日本が近代化する過程において、学校は地域を編成する上で最重要課題の一つであり続けてきた。例えば、戦後、日本には全体で1万ほどの小さな自治体が無数にあったわけだが、それが合併をして3分の1ほどにまで減少する。その際に、なぜ・いかに合併するのかという理由を探れば、特に地方部・郡部の少なからぬ自治体では「中学校を持つための合併」だったという歴史が残っている。つまり、「ある程度の人口や財政の規模が無いと中学校を維持できない。だからあそこの町・ムラと合併しよう」という議論のあげく自治体が成立し、それが現在にも残っている、というのがよくあるパターンだった。自治体という地域の核と学校という教育の核は深く結びついていたのだ。

 しかし、時間を経る中で、その足場は崩れていった。学校は親とも地域とも分断し、「教育サービス」を行う機能に特化していく。これ自体は絶対的に悪いことではあるまい。例えば、非行に走らぬように部活で子どもたちを長時間学校にしばりつけ、生活指導や進路指導も手取り足取り親以上に全てを学校が担う。それが前提となった時代は、他の職業から見ても異常な教員の過労・過剰負担を生んだ。いまもその傾向は一部で残り、働き方改革の時代においては時代錯誤に見えるわけだが、たとえば、学校と地域の関係性の変化がそういうことの改善につながるのならば、それはそれで悪いことではない。ただ、そうだとしても、学校が地域と分断していることの問題は随所に現れだしている。

 その中で本書は、かつては親しい関係にあった学校と地域が、一度離れたものの、さらにもう一度近づいていこうとしている、そうなるべきである状況にあることを浮かび上がらせている。大空小学校や杉並の地域づくり・学校づくりの事例からはそれがよく伝わってくる。歴史的な循環・再帰性と言ったのはこのことだ。

 循環・再帰性とは「再発見」の過程だと言っても良い。現在、コロナ禍の中であたかも新しい議論かのように「遠隔教育」「秋入学」「履修主義・修得主義」その他諸々の論点があぶり出されているが、いずれも、いまにはじまった議論ではなく、いまさらはじめるべき議論でもない。遠隔教育は過疎が進む中山間地域のような教育格差が生まれやすい環境に置かれたり、今後置かれていく地域における格差是正に繋がる可能性があると、例えば福島県の南会津ではeラーニングの実践がなされてきた。しかしそういう事例から得られた知見は地元でも広く共有され活かされてくることはなかった。3.11を経験したんだから災害が起きる可能性を踏まえてもっと取り組みが盛んになっていてもよかったはずだ。おそらくこういう事例は日本全国にあって、なんでコロナ禍が来る前にもっと本腰を入れて取り組んでいなかったんだと思っている人も少なからずいるだろう。秋入学の議論も、中曽根政権下の臨教審、その後の中教審や安倍政権下の教育再生実行会議などで実に40年近くにわたり論じる機会があったが国民的関心が向くことはなかった。いまになってこんなメリットがある、いやこれは問題が大きいというのでなく、先に整理しておくべき議論はあったはずだ。つまり、いま出ている諸々の話は、元から議論を詰め実践をはじめておくべき話であり、それが足りない状態で危機の中に突入したから混乱している。その点で、本書はカリキュラムのほとんどがインターネットで完結するN高等学校教育について深堀りされていることはじめ、なされるべきいくつもの再発見をしていく機会を与えてくれる。読書体験の中から、現場を踏まえた論点の整理を各個人ができる本書の価値は大きい。

 本書にさらに期待することが無いわけではない。それを一言で言えば、「汚い部分」をもっと見せてくれということだ。それがない故のリアリティの欠如がもったいないという感覚が残る。売上・利益で成果が否応なく見える企業活動や常に世論や投資効果が問われ続ける政治・行政の事業とは違い、教育の結果は一朝一夕で明らかになるものではなく、実態を解明しようにも定量化しづらい部分も多い。それ故、検証抜きに「あの人がすごいと言っているからこれはすごい教育に違いない」と悪しき「聖域」化しかねない。美辞麗句が並ぶ空虚な理念や権威・権力ある者のパターナリズムが無批判に蔓延し、一部の者の権益拡大や主導権争いの具にされるリスクが常にそこには存在する。学校が地域の関与を嫌ってきたのは、そういった観点で地域とのトラブルを避ける思いもあっただろう。子どもを前にした大人の中には無意識に、最年少ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユサフザイや昨年話題になった環境活動家のグレタ・トゥーンベリのようなアイコンを作ろうとする者もいる。それが子どものためになることもあるが、失敗すれば子どもの人生を狂わせかねない。実際に教育の変革の現場ではそのような犠牲もあったのではないか。ステークホルダーを増やすことが必ず良い競争・協業を生むわけではない。大きなしがらみとなり悪しきムラ社会をそこに生み出すこともある。本書の事例は例外的にうまくいった稀少例であり、多くの現場では本書のようになれない「理由」、容易には語り得ぬ事情がある、という見方は決して穿ちすぎというわけでもなかろうし、そういう現実が現場に転がっていてこそ、葛藤の中から新たなものが立ち上がりもするのだろう。本書に描かれる表側の隙間に、そういった裏側が垣間見えた見えた時、より本書で扱われてきた内容の意義は高まるに違いない。さらに、その全体像を、教育に関するこれまでの研究などを参照しながら相対化し直す視点もあればより深みをもった未来の学校の構想ができるはずだ。その点での探求は、本来は自らがインサイダーとなり事を成すことを続けてきた著者の類まれな行動力の今後に期待したいところであるし、自分自身でも探求していきたいと改めて気付かされたところだ。

 3.11もそうだしコロナ禍もそうだが、何をやって良いかわからなくなると人は不必要に饒舌になる。例えば、最近幾度か見たネットスラングとして「出羽守(でわのかみ)」・「尾張守(おわりのかみ)」という言葉がある。無論それらは江戸時代の国司のことを指すわけではない。

 なんでも「海外の◯◯ではこんなすごいのに、日本はだめだ」と根拠不確かな「◯◯では」という舶来主義・超越性に頼ってなされる主張を「出羽守」、ニュースなどに言及しながら「もうこれで全てがおわりだ!」と脅す議論を「尾張守」という。インターネット上での浅薄な議論の典型例であり、書店に並ぶ本のタイトルを眺めて見ても「出羽守」「尾張守」に席巻される流れは止まりそうにない。本書はそういった時代の空気に抵抗する力を持っている。空虚な超越性に頼らずに、安易に諦めて怒ってみせることもせずに、現場の答えを前をみながら捉える。本書に描かれる学校に関わる人々のその姿勢は著者の姿勢でもあるだろうし、いま社会に必要な価値観そのものでもあるのではないだろうか。


【伏見 暁洋(国連児童基金・教育専門官)】

私は国連児童基金(ユニセフ)の教育専門官で、これまでアフリカやアジア太平洋地域の各国政府の教育政策支援をしてきた。そんな私にとって、「未来の学校のつくりかた」で紹介された5つの事例は、どれも世界中に「グッドプラクティス」として紹介したくなる、素晴らしい教育・学びの実践事例だと思う。税所さんはこの本で、「2030年の学校教育」のあるべきかたちを追及し、それは「大人も子どもも関係なく学び続け、新しい世界をつくり続ける学び舎」であることを明確に示している。

そしてこの本は僕にこう問いかけているように思うのだ。「伏見さんの国連・ユニセフでのお仕事は、僕が紹介させてもらった5つの学び舎のような学校をつくるのにどのくらい役立ってますか?」と。

この本の第5章「大槌の教育復興」を見習って、私たちも「コロナが好機」という覚悟を持って、前に進むべき時だと思う。そんな中で、税所さんのこの本は、これからの教育、学び、学校、生涯学習、家族、地域作りなどについて、多くのアイデアを与えてくれる。税所さん、素晴らしい本をありがとう。僕も自分ができることをやっていきます。


【山本 万優(著述業)】

本を読み終えて1番に感じた事は、こんなにも学校や子どもに対して向き合っている大人達がいるんだなという驚きだった。

職業柄、学校の先生と接する機会が多いが、TVに出てくる尾木先生みたいな人や志が高い人は滅多におらず、正直なところ”忙しい”が挨拶の二の次に出てくるような先生ばかりで、目の前の仕事に忙殺されている印象を受けている。先生が悪いのではなく、生徒の為なら何でもやりたいという想い故の忙しさだと思うが、この本で米倉先生が仰っていた”何をやらないか手放す勇気が大切”という言葉や、”先生は水先案内人のような役割である”という考え方が今の先生を救うキッカケになるのではないかと感じた。

そして、20代を生きる自分が1番勇気づけられた言葉は井出さんのアドバイスにあった“20代は焦るな!挑戦し、浪費し、じっくり力をためろ!”という言葉だ。実は、あつさんはコレが上手く出来ている人だなと私は感じていら。初めて会社で出会った時、あつさんは育休明け、私は転職してきたばかりで、会議終わりの道で隣を歩くあつさんに話しかけ、この人の雰囲気好きだ!と直感で感じ、経歴を話してすぐに意気投合した。私達の会社は“燃えている個の集団”で、意志の強さや行動力を必要とされる為、周りの意識の高さに私は“頑張らないと!!”と肩の力が無駄に入り焦る1年だったけど、あつさんと話す度に心が軽くなった。 散歩した後の爽快感のようなものを与えてくれるあつさんに、焦らない事、感受性を高めて目の前の仕事に自分の感性をのせる大切さを教わった気がする。あつさん、ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

そして最後に、私が想像する10年後の教育は、コロナの影響でICT化がさらに加速し、先生は感情や思考、チームワーク・感性・好奇心など人じゃないと育てられないチカラを磨くプロフェッショナルになっていて欲しい。

この本を読んで、私自身も10年後、どこでどのように教育に携わっているのかとても楽しみだと思った。


【高田 修太(教育スタートアップHLAB)】

「これからの教育はどうしていくべきか?」という問いは、教育業界に携わる人間として常に意識している問いです。特に、このコロナ禍ではその問いがより一般的かつ緊急的なものとして扱われているのは、皆さんご存知のことかと思います。今、私たちの目の前には、例えば「9月入学にするのか?」「ICTをどう活用していくのか?」といった論点が山積みで、これらに対して社会一丸となって取り組んでいく必要があります。

そんな中で、この本『未来の学校のつくりかた:5つの教育現場を訪ねて、僕が考えたこと』は、「これからの教育はどうなっていくのか?」という問いに対する答えを導くための方法を教えてくれています。

著者の「アツ」こと税所篤快(さいしょ・あつよし)さんは、バングラデシュ版ドラゴン桜とも言われるe-educationの創業者。まさに最初に挙げた問い「これからの教育はどうしていくべきか?」に向き合い続け、途上国でのインパクトを生み出してきた人です。私からすると、もう同じ業界の同世代のキラキラスター!この本は、そんなアツによって日本における「未来の学校」たちとじっくりと向き合い、書き上げられたものです。

あ、さっき、「答えを導くための方法」なんて言いましたが、実はそんな誰にでもできるノウハウがここに全て書いてあるわけではありません(笑)ただ、その答えは明確にある、と本を読んでて感じました。それはいったい何でしょうか? アツが実際に足を運び目にして耳にした5つの事例には共通点がありました。どれもこれもそこに関わる人達がまっすぐだということ。もう、それは眩しすぎるほどに。どうしたらこんなにまっすぐになれるんだ!?と憧れてしまうくらい。例えば、大空小学校の木村先生は「みんなで新しい学校を、いい学校をつくりましょう!!」と第一声で住民を巻き込み、文字通り「みんなの学校」を創り上げた。とにかく他の事例で出てくる先生や行政の方々も、本当に思いに忠実で、まっすぐな人たちばかり。とにかく「子どもにとって最高の教育の場を提供したい」という思いが共通しています。これこそが、先述の問いへの「答え」なのではないでしょうか。そして、まさにこのコロナ禍の中で、教育に関わる人々全員に求められている姿勢でもあると思います。文科省が学校の情報環境整備に関する説明会において批判覚悟で強いメッセージを発していましたが、色々理由をつけてICTを導入しないような公立校は、もう取り残されるだけではなく、「思い」すら失ってしまっているかもしれません。よっぽどこの文科省の担当官の方のほうが思いが溢れているように感じました。

今、私はHLABという組織で、Residential Collegeという未来の学校づくりに取り組んでいます。この本のおかげで、様々な制約条件がある中でも決して自分の中にある「思い」を忘れてはいけない、全ては子どもにとって最高の教育の場を創り上げるためなんだ、という決心を新たにすることができました。まっすぐでいることを諦めはしない。 実は、この「まっすぐさ」と「思い」は本の中の登場人物だけでなく、著者のアツからも本を通じてガンガン伝わってきます。それだけ熱がこもった本です。そんな思いを込めて書かれた『未来の学校のつくりかた』、教育に関わる皆さんはもちろん、そうでない皆さんにもぜひ手にとっていただきたい本です。


【森田 のぶ(商社勤務)】

この本を読んで改めて教育現場とは“人を作る場所”であるなと感じた。

ここで言う“人”とは主役である“生徒”に限らず、教職員や地域の人を含む。もっと言うと、果たして“教育現場”は学校だけだろうか?

例えば大空小学校の章で語られている関わる人すべてに主体性を醸成する大切さや同校で身に付けさせる「人を大切にする力、自分の考えを持つ力、自分を表現する力、チャレンジする力」、またN校の章で語られている、同校で求められる課題発見能力や「させられている感」を失くす取組などはどんな組織でも必要とされる普遍的なものだ。

この本で語られているのは教育現場の課題であると同時にコミュニティの、そして社会の課題であった。

日本中を巡り歩くと、きっとそこかしこで同じ様な課題を抱えた場所があり、その理由も解決法も一つとして同じではないだろう。

この本を読んで、自分はここで語られている改革者にはれない、その様な人が現れたこの学校、地域はラッキーだった、と感じるかもしれない。

過去に彼らの成功話に触れて、自分でも挑戦をして失敗をして失意の中に諦めたくなった人もいるかもしれない。

でも、この本を読んで伝わってくるのは、人は人の背中を見て学び、成長をしていくということ。そしてその学びと成長には大人も子どもも関係がないということ。

今までやってこなかったことを試してみて、いきなり目の前の大きな課題が解決するなんていうことはよっぽど運が味方をしないとあり得ず、大体の挑戦は失敗から始まるだろう。

その失敗を“失敗”で終わらせるか“学び”に変えるかでその経験の価値は大きく変わるだろう。

結局人は学ぶことでしか前には進めない。

そして、変化は結局人の手でしか起こせない。

それであれば一歩を踏み出してみて、また一歩を踏み出した人を讃え、“やってみるか”の連鎖を繋ぎたい。

学ぶ楽しさを知った活き活きとした大人でありたい。

誰かが見てくれたときに恥ずかしい背中とならないように。

読後にそんな希望と勇気を与えてくれる一冊であった。



【諏訪 理(世界銀行 上級防災専門官)】

10年位前に初めて会った時、人を惹きつけてやまない笑顔で税所さんは自分の著書だと言って「前へ!前へ!前へ!」という本を手渡してくれた。バングラディシュの話やら彼の恋愛の話やら盛り上がったのかどうか、終電はすでになく、その日はうちに泊まっていくことになったが、早朝には次の街に行くと出ていった。税所さんはそうやって目まぐるしいスピードでこの10年を駆け抜けていったのだろう。

そんな税所さんにたまに会う機会があるといつも刺激をもらう。その税所さんが日本を飛び回って書いたというこの本。この先10年を考えた時、日本にはいくらでも悲観的になる材料が揃っていると思うが、アイディアと行動力で様々な難問に解を作っていく方々の物語を、これまたけた違いのアイディアと行動力を持つ税所さんが書いた。読んでいて元気が出ないわけがない。

私は教育の専門家ではないし、教育にかかわる仕事をしているわけでもないが、白状すれば税所さんを大幅に上回る年数を大学と大学院で過ごした後、人生で初めて就いたフルタイムの仕事はルワンダという国の高校と大学の先生だった。とても楽しい仕事だったが、実は宿題のようなものが残っている感覚が頭のどこかにある。あなたははその宿題にきちんと向き合っているのですか?と税所さんの本は私に聞いているような気もした。

税所さんは他人を輝かせる才能もあるらしい。おそるべし、税所篤快。でも税所さんにはやはりプレイヤーとして輝いていてほしい、とファンクラブの末席を汚すものとして思うのと同時に、こういった様々な学びが彼の中でどう発酵して次の手を打ってくるのか、楽しみで目が離せません。


【塩崎 皓平(スタディサプリ 営業マネージャー)】

読みました。
ほんとうにいい意味で肩の力が抜けていて、この本のテーマになっている『2030年の学校をつくる』、その未来が読み終わるときに自然と楽しみになっていました。

いま世の中は、変化が激しい時代。その風を受け、教育が変わらなければならないという、社会からの圧力ともいえる要請が教育現場にはあふれているように思います。

だけど、この本に出てくる当事者としての教育現場にはみなシンプルに、子どもの学びと成長があり、そして子どもに関わる大人の気づきと変化があるんです。
要するに、全員で前に進んでいるということ。

子どもも大人も、誰も未来はわからないのだから、みなで未来をつくっていくのだというシンプルな考え方が、この本に出会ったことで、僕の中に舞い降りてきました。

勇気をくれてありがとう。
2030年の学校を考える。
僕も同じ想いを抱く同世代の仲間として、これからも一緒に、未来を作っていけると嬉しいです。